- ホールの出口に向かって流れる人波に身を任せていた成実は、ふと、さっきまで席にいたはずのホールを振り返った。
染めたての黒髪ばかりが目立つ人ごみの向こう側に、高く高く掲げられた日の丸があるだけのその場所は、成実に妙なセンチメンタルの影を落とし、どよめきに潜む静寂が右耳に突き刺さった。
成実は今日,学生というモラトリアムから釈放され、規則と責任の海に投げ出された。平たく言えば、大学を卒業した。
父親が重役を勤める物流会社ではなく、全く関係のない大手ゼネコンへの就職と言う切符だけを手に、成実は卒業式の会場を出る。
卒業を喜び合う者、別れを惜しむ者、それぞれが十人十色の想いを胸にその場にいたはずだが、成実はその大げさな程の別れの匂いが居心地悪く、友人たちへの挨拶もそこそこにその場を離れた。
会場へ入ったときに受け取った一輪の白いカラーの花と、卒業証書の筒を手に、これじゃあ今さっき卒業してきました感が丸出しじゃないか、と嘆息しつつ、帰宅の途を辿るべく、駅へと続く大通りに出た。
子供の晴れの日を祝う親たちが、喜びに目尻を下げる人ごみの中に、成実の知った顔はいなかった。
日曜だというのに、成実の父親は今日も飽きずに仕事だか子守りだか判らない職務に精を出しているのだろう。実家に帰るのは入社式の前でいいだろうと晴れ渡った青空を仰ぐ。
どうせ、父親は成実の卒業を喜びはしない。
父親が勤める会社の形ばかりの取締役である成実が、大学卒業後、違う企業に就職したことは、一族の中でも大きな問題として扱われた。
将来は重役の座と社会的地位、そして十分すぎる程の給料をも約束されていた成実が、就職氷河期と言われる現代の過酷な就職活動に勝利し、大手企業に就職するなどと、誰が予想しただろうか。
今まで散々伊達家を突っぱねてきた成実も、今回ばかりは父親に頭を垂れてコネ入社を果たすに違いないと、誰もが思っていた。
しかし、成実は己の感情に素直で、さらにそれに従うための努力は惜しまなかった。適当かつ怠惰な学生生活の中でも、こればかりは伊達の血筋というべきか、持ち前の要領の良さで単位だけは一つも落とすことなく第一志望の研究室に入り、卒業論文に至っては優秀賞を獲得する程の実力をつけていた。
(しかし、成実に無関心な親族一同がその事実を知る由もなかった。)
所属研究室の教授の推薦を得た成実は、鬼に金棒とばかりに大手ゼネコンの入社試験に見事合格し、かぶり慣れたネコの皮で面接をもクリアしたのだった。
いつまでも泣きついてこない成実を父親が心配して一人暮らしのアパートを訪ねる頃には、すっかりエリートとしての第一歩を固めていた成実は、何の用ですかと冷めた目で父親を追い返すことにも成功した。
寄り道することもなく帰り着いた一人暮らしのアパートの中は閑散としていた。就職に当たり、新しい部屋へ引っ越すのだ。
後々使いそうなもの以外はゴミとなってしまったその部屋の扉を開けた成実は、卒業式だからと一応締めていたネクタイを外し、ジャケットも脱がないままベッドに寝そべった。
就職祝いにと父親の上司である従兄弟が買ってくれたベルサーチのスーツは、紙袋に入ったままクローゼットの前に放り出されている。いざとなればあのスーツで入社式に出ればいい。
(それは成実にとって、不本意以外の何物でもなかったが。)
閉め切ったままのカーテンの向こうで、夕日が目に見える早さで沈んでいくのを感じながら、成実は目を閉じた。
ポケットに入れたままになっていた携帯電話のバイブで目を覚ました成実は、緩慢な仕草で伸びをしてから、不愉快な振動を放つそれを取り出した。もちろんベッドの上に仰向けで寝そべったままである。
外はもうとっぷりと日が暮れている。時間の感覚など、今の成実には必要ないもののようにさえ思える。
ディスプレイに表示された着信の文字の下の名前にこめかみがぎりぎりと痛んだ。
「はい…」
『今どこにいるんです?』
「……友達と飲んでる。」
寝起きのせいで掠れた声でそう答えてやれば、お見通しだとでも言うように玄関のインターフォンが鳴った。
『いいから開けてください。』
「家にはいません。」
『インターフォンの音、丸聞こえですよ。』
「会いたくない、帰れ。」
大学に通っていた4年間、成実が呼ばない限り自らこの部屋を訪れたこともない男が、今日に限って何の嫌がらせなんだ、と小さく舌打ちした成実はしかし、『開けてください』の声に抗うことはできなかった。
寝癖の跳ねた黒髪をぐしゃぐしゃとかき回し、渋々玄関の鍵を開けた。勢い良く開いた扉から差し込む廊下の蛍光灯の明かりが眩しくて、成実は切れ長の眸を細めた。
「今日、卒業式だったんじゃないんですか?」
「だから?ちゃんと行ってきたから心配すんなよ。」
「そうじゃなくて、どうして言ってくれなかったんです?」
「学校から連絡行ってただろ。」
「お父上ではなくて、俺に、です。」
「親でも兄弟でもないんだから、お前が来る必要ないだろ。」
珍しく綱元が怒っていた。普段、何の感情も映さない黒燿石の眸がいきり立つように怒りを宿している。
高校生の時から、お目付役のような面倒な役目を一族から押し付けられていた綱元だったが、なにも大学の卒業式に出席しなくてはならない義務はなかったし、どうせ父親が押し付けるだろうと思っていた、というのも嘘ではない。
しかし、来てほしくない気持ちの方が大きかった。
肩をいからせて怒っている綱元を軽くあしらいながら成実は部屋へと戻った。
後ろから断わりもなく上がってきた綱元の足音を聞きながら、部屋の電気をつける。背後で綱元が息を呑んだ。
「…引っ越すんですか?」
「卒業したしな、会社の寮に入る。」
「…いつです、」
「今週中には。」
「なんで、」
「じゃあ逆に、なんでおまえに全部言わなきゃいけねぇの?」
「…、」
適当に座れよ、と告げて成実はキッチンに足を向けた。
我ながら酷い言葉が吐けたものだと、成実は冷蔵庫から作り置きのコーヒーを出しながら自嘲気味に薄い唇を歪めた。
今まで、成実の父親に代わって、父親も兄も友人も、そして恋人まがいのことまでもこなしてきてくれた綱元に掛ける言葉としては最低なものだった。
しかし、成実はそれでいいと思っていた。
成実の卒業を機に、成実と綱元の間に逢った関係は終わるべきなのだ。他の企業に就職していった恩知らずなクソガキの面倒をこれ以上綱元が見る必要はない。
さっき卒業式の会場で感じた妙なセンチメンタルは、この関係の終焉に起因したものだったのかもしれない、そう考えた成実だったが、吐息だけで嗤って己の浅はかさを打ち消した。
かろうじてまだ出たままになっているグラスを出し、冷蔵庫から氷を出そうとして、手を滑らせた。スローモーションのように床へと落下していくグラスが、酷い音を立てて砕けた。
片付けようと伸ばした指先がぷつりと裂ける。指先に心臓が移動したようにずくずくと痛み、じわりと涙が込み上げたが、綱元が扉を開ける音がしたので薄い唇を噛み締めてやりすごした。
「何してるんですか、あなたは。」
「ぼーっとしてた。」
「けが、してるじゃないですか。」
自然な動きで血の滴る指先に唇を寄せた綱元を半ば突き飛ばすようにして拒んだ成実は、俯いたまま、ごめん、と呟いた。
綱元は、何に驚いたのか判別できなかったが、どこか呆然とした表情で立ち上がった成実を見つめている。
「何があったんです、一体。」
「何もない、ただ…」
「ただ?」
押し黙った成実に、先を促すように言葉を重ねた綱元は、おそろしい程に真摯な眸で成実を見ている。
その視線に一瞬たじろいだ成実は、ともすれば聞き取れない程小さな声で、続けた。
「もう、俺に構うなよ」
「そんなの俺の勝手でしょう。」
「めーわく、なんだよ。」
ずっと、考えていたのだ。
綱元をこのまま縛り付けておくことが、果たして正解なのか。何も生み出さず、しかし何も失うことのないこの名もない関係を続けていくことが、果たして互いのためなのかと。
この関係の始まりは、成実のエゴだったかもしれないし、綱元の同情だったかもしれない。しかし、もうそれに縋り付いていられる程、成実は子供ではなくなったのだ。
成実の心の中で、変わらないのは独りになりたくないという、それだけだった。
愛が芽生えるわけでも、情にほだされるわけでもなく、ただ独りになるのが酷くおそろしかった。
しかし、ゼネコンに就職すると決めた時から、成実の心の中に小さく跳ねたシミのような疑問がじわりと広がり、伊達の家を出て行く自分は、もう綱元には不必要な存在ではないだろうかと思い始めたのだ。
それに、綱元という伊達家とのコネクションがある限り、成実はその枷から逃れられないような気がしたのだ。
「それ、何回言われてきたと思ってるんですか。」
溜め息混じりの綱元の声が酷く冷たい。いつもの、綱元の声だ。
そう思った成実は少しだけ安堵する。
「本気、だからな。」
「そうですか。」
小さく呻いた成実の言葉に、真に受けて答えるのも面倒だとでもいいたげな声音でいらえを残し、綱元はリビングへと戻っていってしまった。
たまたま綱元の父親が成実の父親の部下で、都合、綱元も成実の父親の部下になってしまったというただの偶然のせいで。
たまたま成実が伊達一族の本家筋に近い分家の息子として産まれてしまったという、ただ、それだけのことで。
そして何より、二人の波長がうまくかみ合ってしまったと言うだけの漠然とした運命の螺旋に巻き込まれてしまっただけのことでしかないのに。
どうして、その関係を打ち壊すのがこんなにも難しいのだろうか。
切ってしまった指先からは、未だに止まらない血がぽたりぽたりとフローリングに滴ってゆく。
何事もなかったようにティッシュを差し出すこの男は、一体何を考えているのだろう。
割れたガラスを一つずつ片付けていく綱元の細い指先が、自分と同じように傷付けば、少しは何かわかり合えるのだろうか。
「成実さん。」
視線は床に落としたまま、綱元の声が成実を現実へと引き戻した。
答えなくてもこの男は先を続けるのだろう。
「卒業祝いにメシでも行きませんか。」
もう、構うなと言ったはずなのに。どうして俺の手を離してくれないんだ。
成実は奥歯を噛み締めた。
きち、とこめかみを震わせる音の不快さに僅か背を戦かせた成実は、血に染まっていくティッシュを眺めていた。
「この時間なら、まだまともなところ、開いてるでしょうし。」
「…行かない。お前とメシなんて、」
「成実さん、狼少年の話、ご存知ですか?」
綱元の黒燿石の双眸がひややかに成実を映す。
背中に氷水でもぶちまけられたように、背筋が冷えた。
「信じてないってことか?」
「本気だろうが、嘘だろうが、もう俺には関係ないんですよ。」
最後のかけらを集め終えた綱元が立ち上がり、俺はあなたとさようならなんてまっぴらゴメンですよ、と唇にいびつな笑みに歪めた。
ゴミを捨てるために向けられた背中に、掛ける言葉もなく立ち尽くした成実は、電気を消し、成実のコートを片手に戻ってきた綱元に外出の用意を整えられて表に放り出されてしまった。
もう少しこの男を理解するまでは、この男からも伊達の家からも逃れることはできないのだと思い知った。
End
俺がいなくなったら、だれがあなたを大切にするんですか?