梅雨の雨だと言うには、些か雨足が強い。
開け放した障子の向こうで気の早い風鈴が雨に打たれて激しく音を立てるのを聞きながら、親和は手入れをしていた槍の穂先を懐紙で拭った。
雨のせいか、例年ならばもう少し暖かいような時期に差し掛かろうとする四国の空気は冷たい。
槍の手入れをする間だけ、と脇に脱いであった羽織を手繰り寄せ、すっかり冷えてしまった肩に引っ掛けた。
庭の紫陽花が落ちて来る雨粒の中に溶けた空の色を吸ったように艶やかな青紫の花を凛と咲かせているのを目に止めた親和は、誘われるように立ち上がり、障子に凭れてその花を見つめた。
あおく茂る紫陽花の葉の上を大きなかたつむりがのろのろと這って行くのを見つけた親和の薄い唇が少年のように笑みを刻む。
その紫陽花の向こうに見える廊下を薄紅色の着物の侍女が早足に渡って来る。
何かあったのだろうか、と首を傾げる親和の雰囲気は相も変わらずのんびりとしたものである。
父や兄から戦の話は聞いていないし、長曾我部の宿敵であった安芸の毛利家と和睦を結んでからは血腥い戦ばなしもほとんど聞くことはない。
生来のんびりとした性格の親和は、表にこそ出さないが、そのことを好ましく思っていた。 雨は酷いが、風はそうでもない。湾の内側に繋がれた船がどうにかなってしまったとも、考え難い。
見つからない心当たりを探すのを親和がやめた頃、縁側に出ていた親和に気付いた侍女が頭を下げた。

「小早川様がお見えでございます。」
「隆景殿が?」
「はい。なんでも土佐からのお戻りの途中にこの雨に見舞われて、まだ距離もあるゆえ、宿をお借りできないかとのことにございます。」
「土佐、と言うことは父上たちのところか…断る理由もない。丁重におもてなし申し上げろ。」
「畏まりました。」

恭しく頭を下げた侍女を見送り、親和は室の内側へと足を戻す。
出したままになっていた槍を床の間に置き、今日するべきことを思い浮かべる。
今日中にはどうしても終わらせなくてはならないことはなさそうだと考え至り、折角だから隆景に土佐の様子でも聞こうかと考えた。
陸に繋がれる事を良しとしない父は、たまにふらりと親和のところに寄ることがあるが、奔放な父の代わりにまつりごとを押し付けられがちな兄とは久しく会っていない。
宿を提供するくらいどうということではないが、土佐の土産話程度の見返りを要求するくらいは許されるだろうと、何度か会った事のある小柄な小早川の当主の童顔を思い浮かべた。





「親和様、小早川様がご挨拶をと仰せでございます。」
「ここで会うから、茶ととびきりうまいお菓子頼む」
「畏まりました。草団子とお茶をお持ちいたします」

ん、と短く返事を返した親和は、ぐるりと部屋を見渡し、出しっぱなしになっていた書簡を隅に寄せた。
家臣に皺がどうの、と怒られるかもしれないがそれはうまくごまかす事にしよう。
再び庭に視線を投げた親和の視界の端に鮮やかな萌黄がちらついた。
侍女に案内されてくる隆景だった。
静かな足音が雨音に紛れて近づいてくる。
失礼いたします、と侍女が隆景を連れて室の前で声を掛けた。
案内されてきた隆景の肩ほどの長さの髪はまだ濡れていた。
どうぞ、と自分の向かいを視線で示し、親和が立ったままの隆景を見上げた。
すとん、と腰を下ろした隆景と親和の間に侍女が茶と草団子を置いて部屋を出て行く。
ぱた、と障子が閉まった。



「親和殿、この度は…」
「やめてください、そう言うの。お互い様ですから。」

隆景がちいさな頭を勢い良く下げるのと同時に、親和が苦笑した。
下げかけた頭を首だけで親和に向けた隆景が表情を伺ってくる様が小動物のようで、親和は思わずその頭に手を伸ばした。
くしゃり、と撫でた髪はやはり濡れて冷たかった。

「この雨だと安芸までは遠すぎるし、のんびりしてってくれればいい」
「親和殿…」
「おいしい団子、用意させたからお茶でも飲んでください。」

柔らかな笑顔の裏に、頑として譲らないという親和の姿勢を見つけた隆景は、いただきます、と茶碗の茶をすすった。
長い間船上で雨に打たれてすっかり冷えてしまった隆景の体に、暖かい茶と親和の心遣いがしみた。
満足気な視線を隆景に投げていた親和は、思い立ったように立ち上がり、引き出しの中から手ぬぐいを出した。

「髪、ちゃんと拭かないと風邪引くから」
「さっき、ちゃんと拭きました。」

意外な子供扱いに隆景が唇を尖らせるが、親和はさして気にした様子もなく手ぬぐいを隆景のちいさな頭に載せて、がしがしと細い髪を拭いた。
ある程度水滴の取れた隆景の髪を、確かめるように親和が撫でた。
薄色の髪の感触を確かめる指先が照れ臭くて隆景の体温がわずかに上がる。
親和殿、と静かに名を呼んだ。

「こんなもんかな。」
「すみません」
「いーえ。」

隆景の背後で親和が満足気に笑った。
名残り惜しむように毛先まで指先を滑らせた親和は、自分が羽織っていた羽織を脱ぎ、細い肩にかけた。
隆景は怪訝そうに親和を振り返るが、当の親和はにこにこと笑っている。
小さくため息をついた隆景はその優しさに甘えることにする。
知らない香の香りが鼻腔を満たすが、不思議と嫌な気はしない。
羽織に残った親和の体温がじわりと隆景の細い肩を抱いた。

「土佐からの帰りだと聞いたけど、父上のところに?」
「えぇ、毛利からの用で。」
「父上たちはどうしてた?」
「相変わらずでしたよ。元親公は奔放だし、信親さんは兄様のことをしつこく聞いてくるし。」

散々ですよ、と吐き捨てる様に言う隆景の前に団子の皿を寄せてやりながら親和が笑う。
あそこにいると、自分がおかしいのかと思いますよ。そう言う隆景はうさを晴らすように団子を頬張った。
その様子をあぐらに左肘を乗せて眺めていた親和がクスリと笑みを漏らし、くつくつと喉を鳴らした。

「何が面白いんですか!?」
「ごめんごめん。隆景さんが可愛くてつい」

怒らないの、と親和は隆景のちいさな頭に手を伸ばす。
団子のせいなのかむくれているのか、頬を膨らませる隆景はしかし、その表情とは裏腹に伸びてきた指先には甘んじて髪を撫でさせる。
俺の分も食べていいから機嫌直して、と親和が隆景の顔を覗き込む。
穏やかな笑みをかたどる端正な顔に、なぜか照れ臭さを感じた隆景はついと視線を白い障子紙に流して、団子で手を打ちます、と呟いた。

「親和殿は、私を童子と勘違いされていらっしゃるんですか?」
「どうして?」
「さっきから子供扱いが過ぎるからです!」

子供扱いに拗ねている姿は、まさしく童子のそれなのだが、隆景はそのことには気づいていないのか、手にしていた串から団子をもう一つ頬張った。
隆景の言葉に鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべた親和は、あぁ、と納得したように頷く。

「俺、年の離れた弟がいるから、ついそういう態度とっちゃうのかも」
「あの、私一応これでも小早川の当主なんですけど。」
「うん。でも、俺からしたら可愛いなぁって思うとこ沢山あるし。」
「何ですかそれ…元服どころか家督相続までしてる男に可愛いだなんて。」
「わかんないけど、俺は隆景殿は可愛いなぁって、思う」

続けても埒があきそうにない会話を諦めた隆景はため息を吐いて茶に手を伸ばす。
親和が不意に立ち上がり、閉じられていた障子を開く。
湿り気を帯びた冷たい空気が室内の空気を攪拌した。
障子に凭れて立つ親和の背の広さが意外で、隆景はその背中から視線を外せない。

「雨、やみそうにないですね」
「え、あ…」

親和の背中に見惚れていた隆景は突然かけられた言葉に、それを咎められたかのように慌てて視線を畳の目にやった。
叩きつけるように雨粒を降らす灰色の空を見上げる親和の目が、祈るような色をしていることを隆景が知ることはない。

「もう暫く、やまなくていいけど。」
「え?」
「なんでもない 。ほら、団子。食べないなら俺が食うよ。」
「さっきくれるって言ったじゃないですか!!」

振り返った親和はあははと声をたてて笑い、やっぱり可愛いなぁ、と隆景の髪を撫でた。
何度も繰り返される子供扱いに唇を尖らせては見せるが、嫌ではないその矛盾の理由に隆景はまだ気付かない。


End

BLじゃないと言い張るわけだが。

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