長い前髪から茶を滴らせながら、政宗はその隙間から射殺す視線を投げた。
それを向けられた相手は動じた様子もなく真正面からその視線と同じ強さの瞳で政宗を見返している。
同席していた小十郎と綱元は、身動きせずにその二人の間に横たわる醜悪な確執をじっと見つめていた。

「寝言は寝てる時に言うもんだろーがよ。」
「…寝言じゃねーって言ったら?」
「これだからバカ宗様は困る。話にならねーな。」

痛いほどの沈黙を破ったのは成実だった。いつもの人を食った様な悪童じみた声ではなく、押し殺した殺意に似た嫌悪を剥き出しにしたその声に、綱元は思わず視線を上げた。
政宗に向けて中身をぶちまけた湯呑みを畳の上に放り投げて、これ以上話す事はないとでも言うように背中を向け、閉じてあった襖を開けて静かに部屋を出ていった。
スラリと伸びた背中が、叩きつけられる様に閉まった襖の向こうに消える。
背中に、政宗を気遣う小十郎と綱元の声を聞きながら、成実は凛々しいながらも幼さを残した顔に嫌悪の表情を浮かべた。
普段から政宗につっかかる事の多い成実だが、本気の反抗と言うものは今までにした覚えがない。
同じ伊達の姓を名乗る成実と政宗だが、絶対に超えられない本家と分家と言う主従関係がある。
それは、成実の反抗の理由でありながら、一歩間違えれば謀反にさえなりかねないその感情の歯止めとなる矛盾した存在だ。

ここ奥州の地では、政宗に異を唱えるものはいない。一国の主であると言う理由だけではない。
文武に秀でる主は城下からの評判もいい。鋭い感性と、壮絶な過去に培われた温情、そして全てを有言実行に終わらせる絶対的な行動力。
ある種崇拝にも似た民衆からの支持は、同時に民衆から思考する能力を奪う。
城下の民衆は口を揃えて言うだろう。
『政宗様にお任せすれば、万事うまくいく』
成実はそれを妄信だと思った。くだらない。
政宗とてただの人間なのだ。
判断を誤ることもあれば、我欲に走ることもあるだろう。しかし、それではいけないのだ。
回廊に差し掛かった足を止めた。夏の青臭い風が切りそろえた黒髪を揺らす。政宗と同じ色をしたこの髪が昔から大嫌いだ。
もと来た廊下を振り返る。侍女が慌てた足取りで裾を乱さぬように駆けて行くのが見えた。
立ち尽くす成実を振り返るものは誰一人としていない。それを寂しいと思う幼稚さは早すぎるほど昔に切り捨てた。
政宗様はこの国の全てなのだ。
溜め息も出尽くしてしまえば出なくなるものなのかもしれない。成実はとりあえず城を出ようと厩へ向かった。

何が原因なのかと問われても、もはや成実にもわからなかった。
生まれてからこの方ずっと感じていた嫌悪や劣等感のようなものが蓄積して爆発しただけなのかもしれないし、本当に伊達と奥州の事を思って声を荒げたのかもわからない。
軍議の前に主人である政宗と、参謀である小十郎、成実、綱元の四人が事前に進軍について相談をするのは今に始まった事ではない。
政宗が当主となってからは恒例となっているその会合で、成実が異を唱えた事はただの一度もなかった。少々むちゃな策であっても、成実にはそれを成功させられるという自信があったからだ。むしろ、無茶だと言って止める小十郎と揉める事の方が多かったくらいである。
そのときは見くびられているようで腹立たしかった。
お前の政宗様ほど出来がよくなくて悪かったな、と何度心中で毒づいたか、数えるのも億劫になるほどである。
それでも成実は政宗の策に従い、今までに多大な功績を上げてきた。
しかし、今回ばかりははいそうですかと頷くわけにはいかなかったのだ。
小田原で敗れた豊臣に、報復の戦を仕掛けると言い出した。
力が拮抗していての敗北ならいざ知らず、伊達軍は大敗を喫したというのに、だ。
政宗と豊臣秀吉がやり合っている間に、小十郎が豊臣の参謀である竹中半兵衛を、成実と綱元が指揮する隊が雑兵を押さえ込んでいてもなお、政宗は瀕死の重傷を負い、軍にも多大な損害が出た。
命からがら、と言う形容がピタリと当てはまるざまで奥州に戻ってみれば最上が勢力拡大を狙って国境にまで進行してきている始末。
政宗が療養している間に、小十郎と成実で最上を叩き潰した。
引き際を間違えれば一国の主を失うことになりかねないような大敗のあと、北の弱小軍にさえ僅差でしか勝利できなかった軍が主の復活と共に今一度強国豊臣に戦を仕掛けるなど、国を挙げての自殺行為としか思えない。

今の政宗は己のプライドにだけ固執した無能な馬鹿殿だ。
今まで長く背を預けてきた戦友を多く失った人間の心の傷がそう簡単に癒えるはずがない。
人ひとりの傷が癒える時間で、国がこうむった被害が癒えるはずなど、どう考えてもないのに。
どうしてそんな簡単な事がわからない?

そう胸中で吐き捨てた成実の頭の芯がひやりと冷静さを取り戻した。
政宗は失った事がないのだ。
政宗が与えられなかったと嘆く愛情は、小十郎や綱元や奥州の全ての民が与えている事を成実は知っている。
失っても失っても与えられるそれに、政宗は気付いていないだけではないのか。
厩番に声を掛けて自分の黒鹿毛を出しているところに、綱元が追いついてきた。

「成実さん、」
「謝る気もねぇし、俺は間違ってねぇ。」
「そうじゃなくて、」
「うるせぇよ。アイツは何でもかんでも持ってるから、失った人間の気持ちなんざわかっちゃいねぇんだよ。」
「成実さん!」
「俺たちがアイツひとり、この国ひとつ守るために、どれだけのもん犠牲にしてきたかなんて、アイツにゃ一生わかんねーよ。豊臣でも毛利でも好きなように攻めてとっとと野垂れ死ね。あんなヤツ主でも何でも…ッ!」

手綱を握り締めたまま半ば叫んでいた成実の言葉を、綱元が頬を叩く乾いた音が遮った。
綱元に力を込めたつもりはなかったが、成実は足下をふらつかせて頭ひとつ低いところから綱元を睨みつけている。拍子にはだけた鮮やかな藍染の小袖の袷から、先の最上との戦いで負った傷を覆う白布が覗いた。
豊臣との戦で、成実はひとりの家臣を喪っていた。政宗にとっての小十郎のような、成実を一番に思う情に篤い男だった事を綱元も記憶している。
彼を喪って初めての戦で、成実はいつになく派手な怪我をして戦場から引き上げてきた。先頭を走る黒鹿毛の上で項垂れた成実の鉄紺の陣羽織の至る所がどす黒く変色していたのが今でも綱元の目に焼き付いている。
死に損ねたとでも言い出しそうな成実の背中に掛ける言葉さえ見つからなかったのはたった2週間ほど前の話だ。いまだ完治しないであろう左肩を庇うように鐙に足をかける成実を、綱元は憐憫の情を滲ませた眸で見上げた。

「貴方の主は…、政宗様でしょう?」

そうだと言ってほしかった。言い過ぎた、と。少し頭を冷やしてくる、といつものように拗ねた顔で言ってほしいと心から思った。
切なげに眉を寄せて懇願する綱元を冷ややかに一瞥した成実は、無表情で左肩の奥に走る痛みを噛み殺して愛馬に乗せた鞍に乗り上げた。頭上から見下ろす綱元は酷く頼りない。
悪いのは政宗なのに、と出所のわからない罪悪感が心中で言い訳をさせた。

「知るかよ、あんな馬鹿殿。俺はあんな馬鹿殿に命預ける気はもうないぜ。テメーも知ってんだろ。俺はアイツが昔から大嫌いなんだよ。そんなに政宗様が可愛いなら、国ごと地獄まで政宗様にお供してやれよ。」

じゃーな、と吐き捨てて成実は愛馬の腹を蹴った。
乾いた砂を蹴り上げて走って行く成実を止めるために伸ばした指先を、綱元は無力感にひしがれた沈痛な面持ちで眺めたあと手を下げた。
一連の騒ぎを観ていた厩番が心配そうに様子を伺っているのに気付いた綱元は『いつもの従兄弟喧嘩ですよ』と力なく笑った。



綱元に成実を追い掛けたさせた小十郎は、政宗の濡れた髪を拭いてやりながら、どう言葉をかけたものかと考えていた。
成実が部屋を出て行ってから、綱元の大丈夫ですかという言葉に頷いたきり、政宗は俯いたまま一言も喋らなかった。
髪を拭く小十郎の手に、政宗の手が重なった。

「アイツ、本気だったな。」
「そうですな。」
「丸は、昔から俺のことが嫌いだからな。」
「昔はよく大嫌いと言われておいででしたな。」
「今でもアイツはきっと俺の事が嫌いなんだろ。」

伊達家の当主となった政宗が、成実を幼少時代の渾名で呼ぶことはなくなった。
その名が政宗の口から出た事に、小十郎は少なからず驚いていた。それに加えてこの卑屈ぶりでは、成実に愛想を尽かされてしまったことがよっぽどショックなのだろう。俯いたままの小さな頭が幼少の頃を彷彿とさせた。
その黒髪を軽く撫で、小十郎はため息をついた。
ちらりと様子を伺ってくる様さえ懐かしい。

「本当に嫌いなら、とっくに出奔されているでしょうな。」
「やっぱり嫌いなんじゃねぇか…」
「いつもの喧嘩でしょう。」
「丸、怒ってた…」

こうなると普段猛々しい独眼竜もただの猫である。
小十郎は項垂れる政宗の前に膝を揃えると、小さく咳をした。
政宗の隻眼が小十郎を捉える。

「成実さんは先の戦で色々と喪われた。失ったのは成実さんだけではありません。奥州が大事な民を失ったのです。それも数多く。」
「……」
「大切なものを失った人間が、再び歩き始めるには時間がかかります。傷を癒し、心の弱さを乗り越えねばならない。…ですから、今は時期ではないと成実さんはおっしゃったのです。」

成実は言葉がたりなかったが、政宗は冷静さがたりなかった。
どちらの気持ちも痛いほどよくわかる。はやく雪辱を果たしたい政宗も、立ち上がるための時間をほしがる成実も、どちらも人間として正しいのだ。
しかし、国は違う。倒れてはならないのだ。どちらに進むべきかなど、政宗にもわかっているはずだ。

「政宗様の心中もお察し致しますが、今一度頭を冷やされてはいかがか。御身はお一人のものではない事、今一度思い返していただきたい。」
「ああ。…Coolじゃなかったかもしれねぇな。」
「成実さんは綱元と小十郎がどうにかしておきますから。」
「…悪いな、小十郎。綱元にも謝っておいてくれ。」
「それはご自身でどうぞ。成実さんにも。」
「…わかってる。すこし頭を冷やす。お前も綱元も戻って構わない。気持ちにケリがついたらもう一回集合だ。」
「はっ。」

日頃は見せない、自嘲を孕んだ苦笑で小十郎を見た政宗に頭を下げてその場を辞す。
成実が政宗に対して素っ気ないのは今に始まった事ではない。幼少の頃から兄弟のごとく育ってきた二人にはしかし、互いが乗り越えなくてはならない確執というものがある。
政宗の守人として誰よりも長く傍に仕えてきた小十郎は、その確執となる原因を全く知らないわけではない。(成実に直接聞いたわけではないが。)
成実の父は政宗の父の家臣として長く仕え、政宗の父の死後にはまるでその身代わりとでも言うように政宗に仕えてきた。優しい男だった。
しかし、成実が父親をとられたような気になってしまうのも致し方ない事だった。
成実の父が戦場で命を落としたとき、成実は泣きもしなかった。冷ややかな無表情のまま、亡骸を前に泣く政宗と亡骸を見つめていたのだ。
政宗とは別の形で、成実もまた親子の関係というものをうまく結べなかった可哀想な子供だったのだと悟ったのはその時になってからだった。そして同時に、だから綱元が何かと成実を気にかけていたのか、と納得した。
階を降り、門の方へと角を折れる。城内は静かだった。
天頂を過ぎた太陽が早くも西へと傾き始めている。つい先頃までは夏だ夏だと思っていたが季節が移ろうのが早い。
それだけ色々な事に小十郎自身も追われていたのだという事を実感させられた。
正面へと向かう回廊の先に肩を落とした綱元の姿を見つけて、小十郎は足を止めた。
小十郎に気付いた綱元が力なく苦笑を浮かべると、小十郎も苦い顔で『そうか』とだけ呟いた。気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
「成実さんを、…引っ叩いてしまいました。」
「テメーが成実さんに手ェあげるなんざ珍しいな。」
「えぇ…主に対しての言葉とは思えない事をおっしゃられたので。」
「あの人の暴言はいつもの事だろ。」
「はは、…もう、家臣やめてやるくらいの勢いだったので、つい。」

綱元の言葉を合図にしたように小十郎も厩に向かって歩き始める。政宗に合わせる顔のない綱元はどうするべきか半瞬の逡巡のあとに結局小十郎について歩き始めた。
乾いた笑いと共に足を止めた綱元の気配に気付いた小十郎が二歩前で振り返った。

「そんなこと言われちゃ俺なら顔の形が変わるまでぶん殴ってただろうよ。気にすんな。」
「…小十郎が言うと洒落にならないなぁ。」
「うるせーよ。」

引きつってはいるが綱元が笑みを零したのを認めた小十郎は再び足を進めた。
政宗からは帰宅を許されている。成実の事は綱元に任せるつもりだったが、それが失敗したとなれば小十郎自ら出向くしかないかもしれない。
そう考えて小十郎は眉間の皺を深くした。
小十郎とて成実の言いたい事がわからないわけではない。たしかに、この疲弊した奥州では強大な豊臣に戦を仕掛ける事などできない。
草履を履いた小十郎は立ち上がって綱元を振り返った。

「成実さんとこには俺がいくから、テメーはもう帰れ。」
「政宗様は?」
「おひとりで考えたいそうだ。」

そうですか、と頷いた綱元は小さく安堵の息を吐き出した。
政宗に折れる気が僅かでもあるのなら、この事態はどうにかうまく収束するだろう。
小十郎が成実の説得に動くなら、自分ができる事は何もない。

「小十郎、その…成実さんを、あまり怒らないであげてください。」
「約束はできねーが善処はする。」
「成実さんは、この間の戦で怪我もしていますし…気が立っているのかもしれませんから、」
「最上との時にそれはよく理解した。」
「それと、」
「終わったらテメーんとこに顔出すから、それまでおとなしくしてろ。」
「……頼みます。」

ああ、と頷いて小十郎は綱元に背を向けた。


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