- 微睡む意識の中で、政宗は畳を踏む足音を聞いた。
室の内に誰かが居るとわかるのに重たすぎる目蓋は薄らとも開かない。
肩まで掛けた桂を誰かが剥ぐ。
不穏すぎるその気配に、枕元に置いた刀を取らなくてはと思うのに金縛りにあったように動かない。
仰向けに眠る政宗の腹を跨ぐ体重がのしかかり、死への恐怖が全身を駆け巡り喉奥に悲鳴が貼りつく。
無理矢理こじ開けた隻眼に映ったのは己の腹に馬乗りになり、夜叉のように濡羽色の髪を振り乱した母だった。
彼女の病的に白い両手が逆手に持った短刀を振り上げる。
狂おしいほどの殺意が黒耀石の瞳を暗闇に爛々と輝かせた。
制止の言葉も、掠れた悲鳴ですら上げられずに竜はその女が背負う激情を見つめていた。
諦観に似た何かが寂寥とともに胸を駆けたが、気持ちとは裏腹に脳は死を恐怖した。
がくがくと体が震え、情けない叫びが喉を突く。
突然起き上がった政宗を避けたせいで幸村は元居た場所に頭をしたたかに打ち付けた。
その一瞬のうちに枕元の刀を鞘から抜いた政宗が馬乗りになっている。
喉元に突きつけられる刀身がひやりとした夜気を切り裂いた。
ぜぇはぁと肩で息をする政宗のざんばらの毛先が脂汗に濡れて揺れる。
「政宗殿。」
呼びかけてみるが瞳は血走ったまま幸村を映さない。
喉元に刃が一筋の紅を引く。
体は脱力し、無防備に急所を曝け出したままだが、それとは裏腹な揺るぎない鳶色の瞳が政宗を見詰める。
雪村の喉元に刀を突きつける政宗の手がカタカタと震え、ぽたりぽたりと頬を伝うことなく涙が幸村の首筋に落ちる。
うなじへと流れるのは政宗の涙か、己の血液か。そんな詮無き事を考えながらも幸村は政宗の憎悪を受け止める瞳を緩めることは無い。
「某を殺し、政宗殿の気が済むのであれば幾度でも殺されるが良い。」
幸村の言葉に政宗の空を滑る視線が一瞬だけ像を結び、濃紺の夜着が衣擦れの音を立てる。
小さな悲鳴を上げた政宗は幸村の腹の上で身じろぎ、幼子のように首を振る。
「その孤高の竜が爪を受け止め、骸と成り果てようとも。某、本望にございますれば。」
「お慕い申し上げております。藤次郎様。」
静かに言の葉を紡ぎ、見納めとばかりに政宗を映した瞳を閉じる。
呼ばれなれぬ名に政宗が大きく肩を振るわせ、その弾みでこぼれ落ちた涙が白すぎる頬を滑るところを幸村は見なかった。
今度は確かに像を結んだ政宗の瞳が眼前の光景に驚愕の色を宿し、瞳の奥に燃えていた憎悪の炎が後悔に凍り付く。
重たい刀身が喉元から離れ、がしゃりと政宗が刀を畳みに捨てる音がした。
母に似た濡羽色の髪を、黒燿石の瞳を呪ったことは数えればきりがない。
されど目の前の紅蓮の若子を呪ったことなど一度も無いというのに。
いったい、自分は何をしているのか。
こんなにも己を慕い愛し、惜しみない温もりでもって其れを伝えるこの年若い青年に刀を突きつけ、挙げ句その美しい喉に浅いとはいえ一文字の傷を残すなど。
夢枕に立った母への憎悪は薄れども混乱は加速する。
後悔、謝罪、自責、狂おしいほどの愛情。
それらが混沌と混ざり合い、両手で顔を覆いただ首を横に振ることしかできない己のなんと不甲斐ないことか。
引き換え、組敷いた幸村は無表情に苦しいほどに溢れる慕情を僅か滲ませて政宗を見詰めながら身を起こした。
其れは決して混乱しているからではなく、そうするほか術が無いことを知った上での諦観に基づいた行動であった。
政宗の両の掌から零れ落ちる涙を冷えた指先で拭い、幸村は静かにその手を取った。
「何があろうとも、この幸村、政宗殿のお傍におります故、力不足は百も承知ではござるがご安心召されよ。」
「普段の凛々しく聡明な貴殿も、斯様に壊れそうな貴殿も。某のお慕いする政宗殿に違いは無い。」
嗚呼、呻くように声を上げた喉は乾き、張り付いてしまったかのように言葉が出ない。
(否、何を伝えれば良いかももう判りやしない。)
(昂ったこの感情を鎮める術も、胸の内を狂おしいほどに這い回るこの感情の名すら知らない俺では、そんなこと望めもし無い。)
ただ体温に縋り付く様に幸村を掻き抱くことしかできない。
戸惑う幸村の指先が捕らえるように、そして縋り付くように政宗の夜着を掴む。
互いの玉の緒に縋り付く二人を、首を落とした椿だけがひっそりと見守っていた。
End
幸村の藤次郎様呼びが萌える、というだけの話でございました。
※たまのお[玉の緒・珠の緒]
(古)1.玉を通した紐。 2.命。魂の緒の意。