九月の花嫁
※『三月の水葬』から続きます。





「お待ちください!」



侍女の悲鳴のような叫び声とバタバタと走り回る幾つもの足音が政務をこなしていた元就の耳に入る。
やはり来たか、と溜め息と共に目を通していた書簡を文机に置くのと、スパンと小気味良い音を立てて部屋の襖が開いたのはほぼ同時だった。
緩慢な動作で視線を遣ると失態に顔を蒼白にした侍女と、柳眉を下げた己の長男、そして見慣れた顔が二つ。
片方は赤紫蘇色の眼帯で左目を隠し、右目には怒りを燃え上がらせた元親。
もう片方は父親譲りの銀色の長い前髪の隙間から申し訳なさそうにこちらを見遣る信親。
「申し訳ない、毛利殿。何度も止めたのですが…」
暫らくの沈黙の後、信親が敷居の向こうの板の間に膝を付いて頭を垂れる。
「貴様が謝ることではないだろう。もういい、二人で話をする。全員下がれ。」
頭を下げて部屋の前から去って行く隆元に信親を遇すように告げて畳に散らばった書簡を軽く片付ける。
しかし、戸口に立っている元親は動く気配がない。



「何をしている。早く入らぬか」


そう言ってキッ、と鋭い視線を投げると元親は驚くほど静かな衣擦れの音だけを立てて元就の向かいに胡坐で座った。
向き合って座ったものの何も話さない二人の間を夏前の生温く澱んだ空気が横たわる。
目の前に座る元親の細い銀髪が開け放した窓から入る日輪の光を乱反射してキラキラと輝くのをぼんやりとみていた。
腹の中にどろどろとした暗い闇を飼う自分よりも、快活で真っすぐなこの男の方が日輪がよく似合う。
灼き殺されてしまいそうな右目の奥の憤りの炎が、この男こそ日輪の申し子ではないだろうかと言う錯覚までもを呼ぶ。
そんなことを考えていた元就の思考といつまでも破られることのなかった刺すような沈黙を元親の癖のある声が破る。



「阿呆の俺にもわかるようにちゃんと説明しな。」
「ふん、我の高尚な思考を貴様如きに説明したところで時間と労力の浪費よ。貴様は黙って我の申し出を承諾すれば良いのだ。」



元就の言葉に元親が膝の上の拳を強く握る。


「はっ!そんなんでこの俺が納得すると思ってんのか?」


ふざけるんじゃねぇ、と一度下げた視線を元就に向けながら元親は言った。
その視線は一種凶暴なまでに真っすぐで、『ああ、今目の前にいるのは間違いなく元親なのだ』などとよくわからない感傷が元就を襲う。
しかし、その視線に晒されてもなお元就は説明するなどという愚行には出なかった。
説明してしまえばこの聡い男は全て理解してしまうだろう。
安芸の為、元親と彼が大切にしている長曾我部軍の為に元就が豊臣にその身を、今まで守り続けてきた衿持を差し出す覚悟を決めたことを。
押し殺したこの慕情を。
それを悟られては己の覚悟など関係なく、この熱血漢は豊臣に戦を仕掛けるだろう。
それが喩え負け戦であったとしても、だ。


「貴様が納得しようがしまいが我には関係ない。長曾我部は豊臣に負けたということだ。わかったら貴様よりも出来の良い長男を連れて早く四国へ戻るがいい。」


ぴしゃりと言い放つ元就に、元親は言い様のない憤りを感じていた。
急ぎ届けられた毛利からの書簡に書かれた豊臣との同盟締結による同盟破棄など納得出来るわけがなかった。
只の軍事協力の為だけの同盟ならいざ知らず、元親と元就は仮にも恋慕の情を交わす仲である。
豊臣の兵力が如何に強大で太刀打ち出来るものではないとはいえ、決める前に一言の相談もなかったことに元親は憤りを感じていた。
頼らなかった元就にではなく、頼られなかった己に感じるこの憤りをどうにかしたくて、わざわざ海を超えてここまで来たが、当の元就は取りつく島もない。
それに、ここまで突っぱねられてしまっては同盟の破棄などどうでも良いことに思えてきてしまった元親は、顔色一つ変えない元就の涼やかな目元を睨み付けるように見て、呻くように一番聞きたかった事を音にした。










「じゃあ、…俺との関係はどうなる?同盟がなくなるからはいおしまいって言えるような関係だと思ってんのか?」
「……、ッ」










僅かに息を詰めた元就の眉が少しだけ歪むのを目聡く見つけた元親は小さな衣擦れの音を立てて文机の向こう側に座る元就ににじり寄る。
伸ばした手は、その白い頬に触れる直前で華奢な指に叩き落とされた。
ぱん、と乾いた音を立てて払いのけられた掌をじっと見つめた元親は静かにその手に拳を作った。


「我に、軽々しく触るでないわ。」
「それ、本心で言ってんのか?」
「当然だ。貴様が何か勘違いしている様だから教えておいてやるが、貴様に情など感じたことはない。」


冷たい声で残酷な言葉を吐き出した元就の顔から一切の感情を読み取ることはできず、元親はその言葉の真偽を確かめることができなかった。
揺らぐことのない元就の切れ長の瞳の向こうに、揺れ動く天秤があることも、その一方に自分との関係が乗せられていることも、元親にはわかりようがなかった。
宵を近くして随分と冷たさを増した風が二人の埋められない溝を際立たせるように吹き込む。


「安芸の安寧を守るために我は貴様の下らない戯れに付き合ってやったまでだ。」
「豊臣という強大な後ろ盾を得た以上、貴様は無用の長物。」










「だからもう、必要ないと言っている。」






思ったよりも冷めた声が出た。
そう思いながら目の前で瞠目した後、その隻眼に先よりも強い憤りを宿した元親を見つめる。


「へぇ…じゃあ、今までのは遊びですらなかったってことか?」
「何度も言わせるでないわ。我の躰一つで安芸に安寧がもたらされるなら安いものよ。」


そう答えた元就の瞳に昏い翳りが落ちたことに、怒りに流されはじめた元親は気付く事が出来なかった。
正座の膝の上、文机の影で握られた薄い手が小刻みに震えていることにも。





「貴様とて、所詮は駒の一つに過ぎぬ。」
(そして、我も駒の一つなのだ。)
(赦せとは云わぬ、ただ、人であった我を時々思い出しては呉れぬだろうか。)
(怒りと憎しみがそれに伴ったとしても構わぬ。)










元親は部屋に入ってきた時と同じように、静かに衣擦れの音だけを残して城を去った。
その背中を見送りながら元就は、全て終わってしまったのだと自分に言い聞かせる。
あの逞しい腕に抱かれて、愛惜しい潮の薫りを嗅ぐことも、
男らしい骨張った指が己の顎をさらい、狂おしい程の口付けを甘受することも、もうない。



「もと、ちか…、」
変わらぬ体勢のまま呟いた元就の目から止めどなく溢れる泪を拭う指先が戻ることは二度となかった。


End

友情出演:信親さん隆元さん。不器用な二人を見守ってる長男ズだといいなー。

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