- ※『二月の恋人』から続きます。
佐助が奥州から戻る予定の日、幸村は鍛錬にも顔を出さず、政務も丸投げにして城下から少し離れた野原に来ていた。まだ自分が弁丸と呼ばれていた頃、よく遊びに来た場所だった。
膝下くらいの高さまで伸びた草が青々と茂り、頬を撫でる湿気を孕んだ南風が頬を撫でる。
いずれ聞かなくてはいけない独眼竜からの返事を、まだ平常心では聞けそうになかった。
(返事の内容なんて聞かずともわかってはいるけれど、某はまだそれを真正面から受け入れられないでござる。)
何をするでもなく、ただ広い草むらの中に佇んで空を見上げていた。もうじき夏を迎える甲斐の空は澄み渡り、眩しい程の水色が視界一面に広がっている。
「だんなー!!真田の旦那ー!!」
遠くから佐助の声がした。気付いてはいても振り返るだけの勇気はまだ出ない。佐助は奥州から幸村にとっては残酷すぎる知らせを持ち帰っているはずだ。佐助が此処まで探しにくるのがわかっていればわざわざ屋敷を抜け出したりしなかったのに、と幸村は小さく溜め息を吐いた。
「旦那ってば。聞こえてるんなら振り返るぐらいしてよね」
む、と唇を尖らせた己の忍にすまなかったと一言詫びると、まあいいよ、と佐助は眉尻を下げて笑った。
「はい、これ。竜の旦那から。」
ごそごそと懐を漁り佐助は見慣れた文字が踊る紙を差し出した。
(見慣れてはいるが、もう二度とこの字を見ることはないのかもしれない、)
「じゃあ、渡したからね。俺様、屋敷に…」
「佐助、」
屋敷に戻ろうとする佐助の手首を掴んだ幸村の手は小刻みに震えていた。その指先の震えで全てを悟った佐助はまったく、と苦笑して返しかけていた踵を元に戻した。
「居てあげるから、ちゃんと読みなよ。」
「うむ、…すまぬ」
かさりと小さな音を立てて開いた紙には、揺るぎない決意が短く綴られていた。
幸村の脳裏に揺るがない隻眼が蘇る。じわりと胸の奥が苦しくなるのを感じて幸村は手紙をぐしゃりと握りしめた。
予想した通りの結末に、目の前がちかちかして膝の力が抜ける。その場に崩れ落ちかけた幸村の体を佐助がとっさに受け止める。
「旦那、」
佐助の腕に引っかかるようにして立つ幸村は、俯いたまま下唇を噛み締めた。ぎりぎりと奥歯を噛み締めていないと涙が出そうだった。泣いたところでこの現実から逃れることはできない、そう自分に言い聞かせる。
佐助が背中を優しく撫でる手ですら政宗のそれではないかと錯覚してしまう程に、幸村は政宗に逢いたいと思った。逢ってあの体温を、鋭い視線を感じたいと心の底から思った。
失ってからその大切さに気付くとは良く言ったものだ。隣に居ることを許されていた時から大切にしてきたつもりだったが、こうなった今となってはその認識すら甘かったのかと思う。
佐助は困ったように眉を下げて、幸村をその場に座らせた。
その場に座り込んだ幸村の小柄な躯は小刻みに震えている。きっと、涙を堪えているんだろうな、と佐助はぼんやりと考えた。
幸村は佐助とは違い、感情はストレートに出すタイプなのに、その幸村がそれすらも諦めているのが痛々しかった。
座り込んだ幸村の隣にしゃがみ込んでその背中を撫でる。
「泣きなよ旦那。誰にも言わないから…今日泣かないと、もう泣く機会すらないかもしれないよ?」
その佐助の声に、堰を切ったように幸村の涙が溢れた。
今ばかりは自分が武田の将であることなんて関係なかった。ただ、離れるしかない恋人を想うただの男でありたかった。
信玄の口から同盟破棄の言葉が出たあの瞬間からずっと押し殺し続けて来た本当の自分が、佐助の言葉によって顔を出したのだった。
隣にしゃがみ込む佐助の忍装束の襟元を掴んで抱きつき幼子のようにわんわん声を上げて泣いた。
佐助はそんな幸村の背中を宥めるように軽く叩きながら草むらを走る風を見ていた。
暫く声を上げて泣いていた幸村も少し落ち着いたのか、まだ佐助にしがみついたままではあるが、しゃくり上げるだけまで泣き止んだ。
佐助はそれを確認すると幸村の肩を押して自分の胸から離した。そして真っ赤に腫れた幸村の目を見て言い聞かせるように話しだした。
「ねえ旦那。俺様はさ、何があっても旦那の忍で居るから。
大将の首を取って独眼竜のところに逃げ込もうが、
伊達軍に正面切って突っ込んでいこうが、
…大切な人を殺すことになろうが、
何があっても、俺は旦那の忍だから。
旦那が俺様を必要としなくなるまでは、ずっと付いていくから。
だから、旦那は安心して自分の思う道を選びなよ。」
「…さす、け…」
「俺は何があっても旦那を独りにはしないから」
佐助の言葉に、止まりかけていた幸村の涙がまた溢れ出す。
泣き虫なんだから、と佐助はその涙を忍装束の袖で乱暴に拭って、いつまでも子供だねぇと笑った。
「そろそろ大将も心配してるだろうから帰ろ?」
「そうで、ござる、な」
「あーもー。ヒッドイ顔!!」
「う、うるさ、いでっ、ござるよ!!」
けらけら笑う佐助に当てられたのか、幸村の顔にも笑顔が戻る。
二人で転げるように草むらを走り、二人は屋敷へと戻った。
伊達軍との合戦がすぐそこまで迫っていた。
「小十郎、」
愛馬に跨がった政宗が隣にいる小十郎に声をかけると、小十郎はそれまで睨み付ける様にして見ていた武田の陣営から政宗へと視線を移した。
呼んだ政宗はその隻眼を真正面に向けたままぽつりと言った。
「死ぬんじゃねえぞ…」
「政宗様もくれぐれも無茶をなされませんよう。」
その言葉に頷き、小十郎が小言を言うのは戦の前の伊達軍ではいつもの光景だった。
しかし、今日はいつものそれよりどこか厳かで、押し殺した感情が澱となって横たわるような沈痛な空気を醸し出していた。
「佐助、」
「はいはい?俺様はいつでも大丈夫よ。」
自分の半歩後ろに控えた佐助に声をかけると、いつもと同じ飄々とした声が返ってきた。
いつも通りの佐助に幸村は正面の伊達軍の陣営に視線を向けたまま少しだけ泣きそうに眉を寄せて言葉を継ぐ。
「先日の約束、違えたら承知しないでござる。」
そこには、暗に頼れるのはお前しかいないとでも言うようなニュアンスが含まれていて、佐助は苦笑した。
(旦那の苦しみも悲しみも、取り除いてあげることは出来ないけど。受け止めることを放棄したりはしないから。)
「だーいじょうぶだって!俺様は旦那の優秀な忍なんだから。」
茶化すように言った佐助が表情を殺してから心中で呟いた言葉は幸村も知らない。
(俺様は真田の忍。今一番大事なのは真田の旦那。旦那に刃を向ける奴は誰だろうと赦さない。)
法螺貝の音に続いて猛々しい雄叫びが上がる。
それを合図に哀しすぎる戦は幕を開けた。
なだれ込むように紅と青が入り乱れる。両軍の大将からその雑兵たちまで、皆がそれぞれにそれぞれの想いを胸に抱き武器を奮う。
幸村はその背中に武田の虎若子という通り名を背負って美しき深紅の二槍を振りかざす。
目指すは己が愛した敵の大将・独眼竜伊達政宗。
おそらく最期となるであろう逢瀬の為に、幸村は目の前に立ちはだかる己の首を取らんとする者たちを薙ぎ払う。
最後に受け取った文の言葉を裏切らぬよう、生きて政宗と対峙するまでその勢いは削がれることはない。
一方の政宗もそれはまた同じだった。最後の文にしたためた言葉を違えることのないよう、その美しい六本の爪から放たれる蒼い雷で目の前に立ちはだかる者全てを払いのけ、焦がれる紅い炎を探す。
一瞬視界が開けて愛しい炎が視界を塞ぐ。見つけた、と政宗の降格が左側だけ吊り上がる。
立ち上る砂埃の向こうに二槍を構えた幸村の影が映る。
その影は酷くぼんやりとしていて頼りなく見えた。
「待ってたぜ、幸村」
「政宗殿!いざ尋常に勝負!!」
ついこの間の手合わせの始まりと同じ台詞を吐き出した幸村の心の奥がずくりと痛む。それは政宗とて同じだったが、お互いそんなことは噫にも出さずじっと睨み合う。
幸村が叫んだ声を合図に蒼と紅が真正面からぶつかり合う。周りに居た者たちはその殺気に圧倒されて指一本動かすことすらままならない。ただ口を開けて見ているしかなかった。
幸村の槍の切っ先が政宗の頬を傷つけ、政宗の六爪が幸村の二の腕を引っ掻く。
互いに一歩も譲らない攻防は随分と長い時間に渡って続いていた。
幸村は政宗と打ち合いながら、ずっと心にかかっていた靄のような物が少しずつ晴れていくのを感じていた。槍で受け止める刀の切っ先から、真っすぐに自分へと向かってくる殺気が、かつての真っすぐな愛情に重なり幸村は知らず唇を歪める。
「Ha!!随分余裕じゃねえか…」
「政宗殿こそ…」
幸村の歪んだ唇に気付いた政宗が間合いを計りながら笑う。
それに応えるように幸村も二槍を構え直す。
互いに付け合った傷からの出血で陣羽織には赤黒い斑模様が浮き上がって来ている。
びり、とさっきまでよりも強い殺気に空気が震える。
次が最後かもしれない、幸村は心の中で呟いた。間合いを取りながら睨み合う政宗も軽口を叩いている余裕など本当はないのだろう、大きく肩で息をしていた。
幸村は急所にこそ当たらなかった脇腹の傷から相当な量の血を流していた。脚を伝い落ちる血液で足下が滑る。
徐々に狭くなり始めた視界に、幸村は次を繰り出す前に膝を付いてしまうんじゃないかとさえ思った。
しかし、政宗は政宗で幸村から受けた右腕への一突きのせいで刀を握る掌が血でぐしゃぐしゃになっていた。今にも滑り落ちそうな刀を握る手に力を入れるが、痺れはじめた指先はなかなか言うことを聞いてはくれない。
暫く睨み合いを続けた二人は、互いの体力の限界を感じていた。
「独眼竜!!その御首、某が頂戴致す!!」
「上等!!」
二人はほぼ同時に地を蹴り、雄叫びとともに最後の一撃を放つ。
ガツ、と鈍い音がして幸村の右手から槍が離れ、政宗の手からは六爪が滑り落ちる。
先に膝を付いたのは、幸村だった。
糸の切れた操り人形のようにがくりと俯せに倒れた。
遠くで佐助が幸村を呼ぶ声がした。
そのすぐ後、なんとか持ちこたえた政宗は主の手を離れ、己の左肩に突き立てられた深紅の槍を引き抜いた。
その槍の重さに政宗は一瞬瞠目してそれを手にしたまま幸村を振り返る。
視線の先には倒れた、自分が殺めた愛しい人。
政宗は視界が回るのを感じながら倒れた幸村へと近づいた。
膝を付いてその躯を抱き上げる。最後に抱きしめた日よりいくらか細くなったその躯にはまだ息があった。
「幸村…、ゆきむら……頼む、目ぇ開けてくれ、」
「ま……ね、…どッ、の」
がぼ、と幸村はその小さな口から大量の鮮血を吐き出した。それでも目を開けたことに政宗は胸を撫で下ろす。
「幸村!!まだ、死ぬなよ……」
細く柔らかい鳶色の髪に指を絡ませて政宗は呻くように言った。
幸村は深緋色の目を柔らかに細め、力のはいらない腕を持ち上げて政宗の頬に流れる涙を掬う。
もう視界はぼんやりとぼやけているし、政宗が何を言っているのかもよく聞こえない。
ただ血に塗れた指先から確かに伝わる愛しい体温に神経を集中させた。
「まさ、…むね、どの…それが、し……貴殿の、天下の……為に、討……死にす、るなら………本望、…で、」
そこまで言って、幸村は目を閉じた。それを赦さないとでも言うように政宗は幸村の躯を揺さぶる。
薄く目を開いた幸村は、ひゅーひゅー鳴る喉奥から言葉を絞り出した。
「最期に、…愛して、い、る…と、…聞か…、せて」
「幸村!!待て、…逝くなよ!!」
「あ……して…、」
『愛している』そう言いおいて、幸村は今度こそ目を閉じた。
幸村、と政宗の悲痛な絶叫が木霊する。
絶命した恋人の躯をその胸に掻き抱いて呻く。
取り返しのつかないことをしたとは思わなかった。
佐助に託した文を書いた時に、例え幸村を殺すことになっても、天下を手に入れると、その屍を越えて、是が非でも先へ進むと決断した。
しかし、武将としてではない政宗の心が痛んだ。その心全てがなくなってしまった様に喪失感だけが政宗を満たしていく。
(幸村のいない世界なんて手に入れて、俺は満足なのか?)
「……俺も愛してるよ」
「ごめんな、…幸村」
End
前半がどう見てもさすゆきなことには触れないでほしい…
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